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札幌高等裁判所 昭和42年(ラ)72号 決定 1969年1月10日

抗告人 藤本春雄(仮名)

相手方 大沢洋子(仮名)

主文

原審判を次のとおり変更する。

抗告人は相手方に対し金七〇万円を支払え。

理由

本件抗告の趣旨ならびに理由の要旨は別紙記載のとおりである。

一  抗告理由第一点(離婚の原因)について。

抗告人と相手方との離婚の原因について当裁判所は、本件記録を精査し抗告人および相手方をそれぞれ審尋した結果、原審判の認定したところと同一の判断に到達したので原審判の説示部分をここに引用する。

本件記録ならびに当裁判所における抗告人および相手方各審尋の結果によれば、相手方は昭和二七年頃と昭和三八年一、二月頃にそれぞれ家出をしていること、およびその間昭和三六年五月頃から昭和三八年三月頃まで抗告人らに内緒で御召ほかの衣類数十点を代金合計三四万一、〇〇〇円(内未払高一〇万円)で購入していたこと、の各事実が認められるが、これらはいずれも、相手方と抗告人の養母とめとの間にいさかいが絶えず、抗告人が相手方をかばつてくれずむしろ養母とめの側に立ち一家の実権がとめに集中して相手方に妻として母としての座が与えられないことなどから相手方にうつせきした不満と絶望に起因した行動と考えられるのであつて、抗告人の主張は事態の本末を転倒するものであり到底採用の限りではない。

二  抗告理由第二点(共有財産の有無)および同第三点(共有財産の持分)について。

本件記録ならびに当裁判所における抗告人および相手方各審尋の結果によれば次の事実を認めることができる。

(一)  抗告人と相手方は昭和二〇年婚姻して以来子供二人と共に抗告人の勤務先である○○町役場の職員住宅に居住していたが、昭和二五年七月頃抗告人の養父藤本正吉と養母藤本とめ夫婦が右住居に移住して来て抗告人ら一家と同居するようになつた。当時双方の家庭には格別見るべき財産はなく、抗告人と養父正吉の受ける給料で両家族の共同生活は賄われ、養父正吉は他に恩給を受給していたがこれは貯蓄に向けられた。

(二)  昭和二七年七月頃正吉が抗告人の現住所に土地(一六三・二〇平方米)と建物(二階建一棟床面積一階七四・三八平方米、二階二九・七五平方米)を代金一二万円で買入れ、とめおよび抗告人ら一家と共にここに移住し、同時に正吉が五万円の資金を拠出して一家協同して毛糸店を始めた。それは当時抗告人が肺結核を患いその病勢が芳しくなかつたので、万一に備え女手一つでやつていける営業として毛糸店を選び開業したものであつた。正吉は勤務に出ており、相手方は一家全員の炊事等家事を担当していたから、毛糸店の業務は主としてとめが当つたが、相手方も余力をあげて毛糸店業務を手伝つた。

(三)  昭和三一年に至り正吉も抗告人も相次いで勤務先を退職し、同時に正吉が資金を出して新聞販売店を併せて開業したので、一家は挙げて毛糸店および新聞販売店の業務に専念することになり、家族全員の協力でその経営は順調に伸びていき、昭和三四年二月には税金対策上右二つの営業を目的とする有限会社○○毛糸店を設立した(出資金は一〇万円とし、正吉が五万円、とめと抗告人が各二万円、相手方が一万円を出資した形式をとつている。)。ただし、右有限会社の設立は従来の家族経営の実質を変革したものとは認められず、事実、抗告人と相手方とが離婚した後の「株主総会」において相手方が家出のうえ離婚したことを理由に「除名」され、代つて抗告人と相手方との間の長女藤本君代が社員となつたが、その間に何ら持分譲渡の手続もとられておらず、また昭和四二年には付近の道路拡幅のため正吉所有名義の前記土地が収用され、その収用補償、営業補償、家屋改築費の補償などの名目で約一八〇万円が施行者から支払われたが、そのうち少くとも営業補償は有限会社宛に支払われたものと解されるのに、これを含めた全額が家屋の改築費用に当てられた等の事実があり、右有限会社はおよそ会社組織とは程遠い感覚と実態をもつて運営された。

(四)  経理面においても一家の実権は毛糸店を始めた頃から抗告人の養母とめが掌握するようになり(商業上の収支は勿論のこと、日常生活上の出費も一切とめの手を経なければならなかつた)、じ来抗告人や正吉の給料などもこれらの者から直接とめに手渡される有様で、帳簿上はともかく実質的には商業上の収支も家計上の収支も渾然一体となつて管理運用され、正吉の恩給と共に右収支の余剰金は主として正吉あるいはとめの名義で、また○○毛糸店もしくは藤本新聞店の名義で蓄積された。しかし右営業が養父母夫婦と抗告人ら夫婦との共働によつて営まれ(勿論相手方は養父母を含む一家全員のため炊事などの家事労働が主であつたと認められるから営業への寄与は間接的な面が多いと解されるが、そのことによつて財産形成への貢献度が劣ることはない)、また右有限会社がその実質は家族経営の域を出ないものであることからみると、その名義を問わず一家に蓄積された資産は養父母ならびに抗告人ら夫婦の共働によつて形成された共有財産とみるべき実体のものである。

(五)  ところで右形成された共有財産としては昭和三九年当時少なく見積つても土地家屋が二五〇万円、商品在庫が九〇万円、自動車等が三〇万円、預金現金が三〇万円総計四〇〇万円を下らないものと評価される(有限会社○○毛糸店の会計諸表の証拠価値についての判断は原審判の説示するところと同一であるから引用する。)そして抗告人ら夫婦および養父母計四名の右財産形成に対する貢献度は、正吉に恩給収入があつてこの点を別に評価すべきことを除けば各人平等と解されるところ、正吉の恩給収入は現在でも一ヵ月約二万五、〇〇〇円程度であり正吉が右恩給を全部資産形成に投じたとしても(土地家屋の購入や各営業開始のため正吉が投じた資金もこの形で評価しうる)その貢献度はこれら四名の各一名の貢献度と同程度を越えることはないと評価できる(恩給の性格から考えてもこの限度を越えることはない)から、これを一名分と同視して換算すると、結局各人の貢献度は正吉以外の三名が各一であるのに対して正吉は右恩給分を含めて二の割合で評価され、従つて右共有財産の持分は正吉が五分の二、他の三名は各五分の一である。してみると抗告人と相手方はその協力によつて右四〇〇万円の合計五分の二、すなわち少なくとも一六〇万円に相当する共有財産を形成したものとみるべきものである。

そして以上認定して来たところに右財産形成に対する辛苦の程度、婚姻の期間(一八年間)、離婚に至つた経過・原因、相手方の呉服等購入の事実・原因、双方の年齢、離婚後の生活状態、その他本件記録に顕れたすべての資料ならびに財産分与の請求がなされてからすでに満四年を経過している事実を斟酌すると、相手方が抗告人から分与を受けるべき財産の額は金七〇万円をもつて相当と認める。

抗告人は相手方に対して分与すべき財産はなく、また相手方には財産分与を受ける権利がないとして種種主張するが、以上認定説示して来たところと相容れない部分はいずれも当裁判所の採用できないものであり理由がない。

三  以上のとおりであるから相手方の本件財産分与の申立は金七〇万円の限度でこれを認容すべきであり抗告人に金一〇〇万円の財産分与を命じた原審判は右の限度でこれを変更することとし、家事審判法七条、非訟事件手続法二五条、民事訴訟法四一四条、同三八六条の規定に基づき主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 原田一隆 裁判官 辻三雄 裁判官 三宅弘人)

参考

抗告の理由

一 抗告人と相手方との離婚の原因について。

抗告人と相手方は昭和二〇年三月一一日婚姻し、同三八年八月三一日まで同居したが、同三九年九月四日協議離婚した。その離婚の原因は相手方の同居義務違反ならびに悪意による遺棄であり、相手方の計画的な浪費による家庭生活の破壊にあつた。すなわち、

(一) 抗告人は昭和二六年三月頃肺結核の診断を受け○○町役場職員を休職して入院し、また退院復職するという経過を同三一年七月頃まで数回繰り返した。その間相手方は再三抗告人に無断で実家に帰り、別居生活をするから月給を員数割りにして生活費を送つてくれるように等の申出をした。抗告人はその都度子供二人の将来を思い抗告人の養父をして相手方を連れ戻させた。抗告人は相手方のこのような言動のため専心療養に当ることができず、また全治せずに復職を繰り返すことが生命をけずることになるため昭和三一年七月末日○○町職員を退職し自宅療養に切り替えた。

(二) 抗告人は昭和三一年四月頃肺結核のため入院中に胃けいれんを起こしその痛みを取るためモルヒネ系薬剤の注射を受けた。そのため同三九年一一月二四日まで定期的な中毒を起こし一ヵ月のうち一〇日位は寝てばかりいるという情況であつた。その最中に相手方は何らの相談協議もなく抗告人の枕元で「チョット赤平に行つて来るから」といつて家を出、離婚ならびに財産分与の調停を申立てたものである。

このような行為は病気のため生活力、生命力の弱つている抗告人を何ら理由もなく一方的に、しかも計画的に悪意で遺棄したものでなくて何というべきか。

(三) 相手方は後記第三項に記載するとおり計画的な浪費をなし、そのため家庭生活上にも支障を来たし、抗告人との婚姻関係に破綻を生じさせる結果となつた。

二 共有財産の有無について。

そもそも離婚による財産分与は夫婦間に存する財産の分割処分であつて、抗告人の養父母や有限会社等第三者に属する財産を分与の対象とすべきではない。原審判が共有財産と認定したものはすべて抗告人と相手方夫婦間の財産以外のものであつて抗告人と相手方との間には何ら財産は存しない。すなわち

(一) 現在の土地家屋は抗告人の養父藤本正吉が昭和二七年に購入したものである。原審判は当時養父母には見るべき財産がないと認定しているが、当時養父正吉は二カ所から恩給を受けており後記毛糸店の開業資金や新聞販売店の権利購入資金はすべて養父正吉が支弁している。

(二) 毛糸店および新聞販売店の売上げ収益、営業用自動車、在庫商品などはいずれも有限会社△△毛糸店の資産であつて、抗告人および相手方は右有限会社から給料の支払を受けていたに過ぎない、毛糸店は昭和二七年九月頃養父正吉が出資して養母とめ一人で開業したものであり、新聞販売店は昭和三一年に同じく養父正吉が出資し抗告人が営業を担当したが見るべき収益はなかつた。これらの営業は昭和三四年に有限会社組織に組み入れられ、相手方は右有限会社の持分を形式上有していたが、出資金は未払込みであり帳簿上社長たる養父正吉の私費立替金となつており、現物による出資もない。

(三) なお原審判は抗告人と相手方とが離婚した後である昭和四二年当時の財産を評価しているが、離婚後抗告人が心機一転してその業務に励んだ結果あげえた利益や、これにより改善された生活状態のごときは、これを財産分与の審判に当つて考慮すべきものではない。

三 共有財産の持分について。

抗告人と相手方との婚姻中に形成された財産があるとしても、相手方は抗告人との共有財産の形成に何ら寄与しておらず、かえつて相手方は計画的浪費によつて経済生活を危殆に陥れたものであつて、相手方に分与すべき財産はない。すなわち

(一) 原審判は相手方が仕入・集金等一家の商業上の業務に従事したと認定しているが、相手方は家事労働が本務であり、商業上の業務については手伝いの域を出ず、その経済価値はなかつた。すなわち毛糸店の方は昭和二八年三月から現在まで女店員を常雇しており販売集金ならびに店舗の掃除等を担当しており相手方のなすべき仕事はなく、仕入れも相手方が行うのは年に数回小樽に出向く程度であつた。また新聞販売店の方も集金については数人の集金人を常雇しており、ただ集金人が約二ヵ月不在であつた折、および抗告人が病気で寝ている間等一時的に約一〇〇戸程度の集金を担当させたことがあるに過ぎない。しかもこれら労務の提供に対しては毎月相手方に給料を支払つている。

(二) そのうえ相手方は昭和三六年五月二八日から同三八年三月一八日までの間、生活必需品にあらざる御召ほかの衣類を数十回にわたり購入し、数十回にわたり個人ならびに有限会社の会計から金員を持ち出し支払つている。この浪費支出のため抗告人らは営業上重大な経営不能の事態を招いたが、相手方にこのような行為があるのに相手方が商業上価値ある協力を行なつたということはできない。

少くとも原審判の認定した四分の一という共有持分の割合は認めるわけにいかないものである。

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